自分の人生観を大きく変えた出来事…パート1
2010.8.31.
皆さんも、「自分の人生観を大きく変えた出来事や言葉」をお持ちのことと思いますが、
ブログの中の一つのシリーズとして掲載していきたいとおもいます。
一昨年、産業カウンセラー養成講座を受講させて頂いたときに、宿題として出された
レポートです。
テーマは「最も心に残っている私の少年、少女時代の思い出」で、600字以内に
まとめるものでした。
私の父は、尋常小学校を卒業すると、丁稚奉公に入った。その関係で、小学校入学前まで、その社長さんの土地に建つ長屋に住ませて頂いていた。社長さんが若くして病死され女社長さんであった。とみかく綺麗好きで厳しい方であった。家に入るときには、履物をきちんと揃えて、足を洗って雑巾で拭かないと大声で怒鳴られた。
社長さんの家は、花の綺麗な庭付きの大きな家で、いつも綺麗な服を着ておられた。子供ながらに、何時かあんな素敵な家に住んで見たいなーと思っていた。
父は出張が多く、家に居る時も朝早くから夜遅くまで働いており、父の顔を見る事も家族で一緒に食事をする事も月何回かであった。社長さんの家族が、いつも楽しそうに一緒に食事をされているのが凄く羨ましかった。
強くて厳しい女社長さんであったが、凄く心に残っている思い出がある。お取引先から頂くお中元、お歳暮を従業員全員に平等に配られるあったかな方であった。
父が長期出張から帰ったある日、北海道から頂いた塩引き鮭だといって、頭付の方を我が家に届けて下さった。その晩、父と社長さん宅にお風呂を頂きに行った時、社長さんの食卓の鮭を見せて、「いつも頭の美味しい方を我々に下さっているんだョ!」の一言は、今でも自分の人生観の指針になっている。
64歳で他界した亡き父との思い出
自分が26歳で結婚することになった時、家も古いし新築しないかと父に提案すると…
自分が採用した従業員が全員、自分の家を持つまでは、この家は直さないの
一言だった。
結婚して半年後に、父は癌が見つかり、手術も出来ないと宣告された。
父が働いていた会社で、まだ市内配達をしていた自分であったが、取締役会でいきなり
役員に抜擢され…
今後の経営や経理に関し、病院に父に聴きにいくと、あれだけ家でいろいろ言ってた
父が…
「会社の役員の皆さんを信頼して相談して決めろ」の一言だけだった。
小学校4年のとき、一度だけ父を殴ってしまたことがある。
父が胃潰瘍と診断され、母が自分の体が一番大切なんだから休養するようにとすすめた
が…
毎日のように言ってる母の姿をみて、ある日、おもわず手がでてしまった。
その一ヵ月後に、家族で村松方面にある鯉料理専門店の「松田」さんに行くことになった。
子供思いの父であったから、いろいろ連れて行ってくれたことと思うが、自分の中では、
この旅行しか記憶にないのである。
父の美味しそうに食べる笑顔と鯉こく、甘露煮、洗いの美味しかったこと、今でも鮮明に
覚えている。
父は10月10日に入院し、翌年の5月16日に他界したのだが、伸子が同じ病院で長男を
3月に出産し、病室で父より孫を抱いてもらえたことが…
今考えると唯一の親孝行だったように思う。
皆さんも、「自分の人生観を大きく変えた出来事や言葉」をお持ちのことと思いますが、
ブログの中の一つのシリーズとして掲載していきたいとおもいます。
一昨年、産業カウンセラー養成講座を受講させて頂いたときに、宿題として出された
レポートです。
テーマは「最も心に残っている私の少年、少女時代の思い出」で、600字以内に
まとめるものでした。
私の父は、尋常小学校を卒業すると、丁稚奉公に入った。その関係で、小学校入学前まで、その社長さんの土地に建つ長屋に住ませて頂いていた。社長さんが若くして病死され女社長さんであった。とみかく綺麗好きで厳しい方であった。家に入るときには、履物をきちんと揃えて、足を洗って雑巾で拭かないと大声で怒鳴られた。
社長さんの家は、花の綺麗な庭付きの大きな家で、いつも綺麗な服を着ておられた。子供ながらに、何時かあんな素敵な家に住んで見たいなーと思っていた。
父は出張が多く、家に居る時も朝早くから夜遅くまで働いており、父の顔を見る事も家族で一緒に食事をする事も月何回かであった。社長さんの家族が、いつも楽しそうに一緒に食事をされているのが凄く羨ましかった。
強くて厳しい女社長さんであったが、凄く心に残っている思い出がある。お取引先から頂くお中元、お歳暮を従業員全員に平等に配られるあったかな方であった。
父が長期出張から帰ったある日、北海道から頂いた塩引き鮭だといって、頭付の方を我が家に届けて下さった。その晩、父と社長さん宅にお風呂を頂きに行った時、社長さんの食卓の鮭を見せて、「いつも頭の美味しい方を我々に下さっているんだョ!」の一言は、今でも自分の人生観の指針になっている。
64歳で他界した亡き父との思い出
自分が26歳で結婚することになった時、家も古いし新築しないかと父に提案すると…
自分が採用した従業員が全員、自分の家を持つまでは、この家は直さないの
一言だった。
結婚して半年後に、父は癌が見つかり、手術も出来ないと宣告された。
父が働いていた会社で、まだ市内配達をしていた自分であったが、取締役会でいきなり
役員に抜擢され…
今後の経営や経理に関し、病院に父に聴きにいくと、あれだけ家でいろいろ言ってた
父が…
「会社の役員の皆さんを信頼して相談して決めろ」の一言だけだった。
小学校4年のとき、一度だけ父を殴ってしまたことがある。
父が胃潰瘍と診断され、母が自分の体が一番大切なんだから休養するようにとすすめた
が…
毎日のように言ってる母の姿をみて、ある日、おもわず手がでてしまった。
その一ヵ月後に、家族で村松方面にある鯉料理専門店の「松田」さんに行くことになった。
子供思いの父であったから、いろいろ連れて行ってくれたことと思うが、自分の中では、
この旅行しか記憶にないのである。
父の美味しそうに食べる笑顔と鯉こく、甘露煮、洗いの美味しかったこと、今でも鮮明に
覚えている。
父は10月10日に入院し、翌年の5月16日に他界したのだが、伸子が同じ病院で長男を
3月に出産し、病室で父より孫を抱いてもらえたことが…
今考えると唯一の親孝行だったように思う。
2010-08-31 13:21
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